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3. Unix の勃興

一方、 ニュージャージー (New Jersey) ( 7) の郊外では、1969 年からやがては PDP-10 の伝統に取って代わることになる何事かが進んでいた。ARPANET が誕 生した年は、ベル研の Ken Thompson が UNIX を創り出した年でもあった。

Thompson は ITS と共通の祖先を持つ Multics と呼ばれた タイムシェアリ ング(時分割処理) OS の開発事業に参加していた。Multics はオペレーティン グシステムの複雑な部分を内部に隠し、ユーザや大多数のプログラマに対して 見えなくするための基礎実験のためのものであった。このアイディアの結果、 Multics を外から操作する(プログラムの作成も)のがもっと簡単になり、プロ グラミング以外のより重要な仕事をもっとたくさんこなせるようになった。

ベル研は、Multics ( 8) が役に立たたない もてあましものの兆候をあらわし始め た時、そのプロジェクトから撤退した(そのシステムはのちに Honeywell によっ て商用的に売られたが成功はしなかった)。Ken Thompson は Multics の環境 に未練を感じていたので、そのアイディアと彼自身のアイディアを合わせたも のを、リサイクル部品で作った DEC PDP-7 で実現する企てをはじめた。

Dennis Ritchie というもう一人のハッカーは C と呼ばれる新しい言語を創 り,これを生まれたばかりの Thompson の UNIX で使えるようにした。UNIX の ように、C は楽しむもので、強いられるものではなく、そして柔軟性を持った ものとして設計された。 ベル研究所でこれらツールへの関心が高まり、1971 年にはとても盛んになった。その年には、 Thompson と Ritchie が現在われ われがオフィスオートメーションシステム(文書処理システム)と呼んでいるも のを、研究室内部で使うために作る予算を獲得した。しかしThompson と Ritchie の目標はもっと大きなところにあった。

従来、オペレーティングシステムは、ホストマシンから可能な限り最高の能 力を完全に引き出すためにきっちりしたアセンブラで書かれていた。Thompson と Ritchie はハードウェアとコンパイラ技術は十分によくなったことを最初 に認めた。つまり、完全なオペレーティングシステムは C で書くことができ、 1974 年には 完全な環境が違った形式の複数のマシンにうまく設置された。

このようなことはそれ以前には決して行われなかったことで、含蓄深いもの であった。もし UNIX が多くの違った形式のマシン上で同じ状態で同じ能力で 存在することができるなら、それらのすべてに対して共通のソフトウェア環境 を提供できるわけである。ユーザはマシンが時代遅れになってしまうたびに、 ソフトウェアの完全な新しい設計に注意を払わなくてもよくなるのだ。ハッ カーたちは、いつも火と車輪をその都度再発明をするよりも、違ったマシンの 間でソフトウェアツールキットを使いまわすことができるのである。

移植性のこと以外にも、UNIX と C は別の重要な長所を持っていた。両者は "Keep It Simple, Stupid シンプルなままにしておけよ、このマヌケ" ( 9) という 考えで設計された。プログラマは C 言語の論理的な構造を簡単に暗記してお くことができた。これは C 以前や以降の他の言語では不可能なことで、この ような言語を使う場合、たえずマニュアルを参照する必要があった。また UNIX 自体も単純なプログラムからなる柔軟なツールキットとしての構造を持っ ていた。各々のプログラムは、お互いに便利に組み合わせることができるよう に設計されていた。

その組合せは、非常に広い範囲のコンピュータ業務に利用できることがわか り、設計者には予想できないような利用もされた。正式なサポートプログラム を欠いていたにもかかわらず、UNIX と C は AT&T 内で急速に普及した。1980 年には、多くの大学や研究所のコンピュータ部門に普及し、そして何千人もの ハッカーたちが UNIX を自分のホームグラウンドと考えるようになった。

初期の UNIX 文化で役立ったマシンは PDP-11 とその系列にある VAX であっ た。しかし、 UNIX は高い移植性を持っていたので、すべての ARPANET につ ながっているマシンならどんなものでも、基本的な変更をしなくても動いた。 そして、アセンブラを使う者はなくなり、C プログラムはこれらのマシンにす でに移植可能であった。

UNIX には専用のネットワーク機能さえあった。UUCP のような簡単なものだっ たが。低速で信頼性は低くかったが安価であった。2台の UNIX マシンがどの ようなものでも通常の電話回線によって 2点間 (point-to-point) で電子メー ルを交換できた。この機能はオプションとしてではなく、システムのなかに組 み入れられた。UNIX サイトは自分たちのネットワークグループを作り、そこ でハッカー文化はネットワークとともに動き出した。1980 年になると、最初 の USENET サイト間で、広範囲のニュース交換が始まった。それは巨大な電子 掲示板となり、APANET よりも急速に大きく成長することになる。

ARPANET の上にもいくつかの UNIX サイトがあった。周辺部では PDP-10 と UNIX 文化が出会い、混ざり合いをはじめていたが、それらは最初のうちは十 分な交流はなかった。PDP-10 のハッカーたちはバロックの香りがただようよ うな LISP や ITS の愛すべき複雑さに比べると、 UNIX はばかばかしいほど 原始的に見えたツールを使う成り上がり者の群れだとみなしていた。``石のナ イフと熊の毛皮 Stone knives and bearskins!' ( 10) と彼らはつぶやいた。

しかし第3の流れ ( 11) はまだなかった。 1975年 にはじめて個人用コンピュータ が売られた。Apple は 1977年に基礎を固め、その年から信じられない速度で 前進した。小型コンピュータの可能性が明らかになり、もうひとつ別の有望な 若いハッカーたちをまだひきつけていなかった。<em>彼ら</em>の言語は BASIC であり、あまりに原始的だったので、PDP-10 党と UNIX ファンの両方 ともがそれを軽蔑するにも足らないものだと考えた。

(訳注)New Jersey: ベル研はニュージャージ州マレイヒルにある。New Jersey=ベル研でもあり、 スタンフォード大学やシリコンバレーでは設計がまずいの意味でも使われた。

(訳注)Multics に関して、原文では when Multics displayed signs of bloating into an unusable white elephant と記述されている。 white elephant は無用の長物。まずい設計のために著しく大食らいで、 動いても維持が大変になる。

(訳注)``Keep It Simple, Stupid'': "シンプルなままにしておけよ、このマヌケ"はスヌーピーの "PEANUTS"からの 引用。わざわざ複雑にする必要はないという意味で使われている。

(訳注)Stone knives and bearskins!: Star Trek Classic のThe City on the Edge of Forever から。 物事を設計する上で優れているとされる方法から見ると、グロテスクなほど原 始的と言えるコンピュータ環境を表す(ととにも批判する)のに伝統的に使われ ている用語。(ハッカーズ大辞典、444頁)。

(訳注)「第3の流れ」(a third current) first が ARPANET/PDP-10、second が UNIX/C、third が PC。 第3の流れとしてパーソナルコンピュータ登場した。


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